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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [3]




「誰だっ」
 振り返る先で、少女が蜜柑を一つ、ポンッと上へ投げた。切れかけた電灯の下で、投げては受け止め、受け止めては投げ、ポンポンと蜜柑を弄んでいる。竹内みかんと書かれたダンボール箱の上に片足をのせている姿は、少し不敵にも見えた。
 ここは男子寮の敷地だ。どうして女が?
 だが、酔った栄一郎の頭はそこまでは回らない。
「なにしやがる、このアマァ」
 足を踏み出し飛びかかろうとする栄一郎。そんな相手の額めがけ、少女は的確に少し腐りかけた蜜柑を投げつけた。(ひる)む相手に体勢を立て直す時間など与えず、足元に置いてあったバケツを取り上げ、栄一郎へ突進する。
「これでどうだっ」
 勢いをつけて水をぶちまける。
「ほら、今のうちっ」
 急きたてられ、唖然としていた少年はその言葉に慌てて目を(またた)かせ、一目散に寮へと逃げ込んだ。
「こ、こらっ、お前、何しやがるっ! 俺様を誰だと思って」
「へんっ、何が栄一郎様よ。酒飲みの道楽息子がっ」
「誰が道楽息子だ。俺はなぁ、大学通ってんだぞ。お前らみたいな、うっぷ、学無しのバカとは違うんだ」
「何よ、大学ったって、ほとんど行ってないじゃない。毎日毎日、酒呑んでウロついて、親の金で遊んで、バッカじゃない」
「っんだと。それ以上言ってみろ。ただじゃ済まねぇぞ」
「へぇ、じゃあどうするつもり?」
 片手にバケツ、片手を腰に当てて顎をあげる。水を滴らせながら、栄一郎は髪を振り上げて相手を睥睨した。
 本当に少女だった。化粧っ気もない、色気のカケラも無い、典型的な田舎娘だ。
 こんな奴に、こんな扱いを受けた。
 (はらわた)が煮えくりかえる。
「お前なんか、クビにしてやるっ!」
「どうぞご勝手に。私だって、アンタみたいな道楽者が継ぐような工場でなんていつまでも働き続けるつもりなんかないわよ」
「っんだと。生意気な。こっちはお前みたいな貧乏人に金くれてやってんだぞ」
「アンタがくれてるワケじゃないでしょ。それに、別にココがクビになったって、他に行くところなんていくらでもあるのよ」
 確かに、工場は他にいくらでもある。
「他でも雇わねぇように手ぇぐらいまわしてやる。ナメんなよ」
「アンタみたいな薄汚い男、誰がナメるか。それにね、働き口はココにしかないワケじゃない。日本は広いのよ。それこそ東京へでも行けば、きっともっといくらでも稼げるにきまってる」
 東京、という言葉が栄一郎の脳天を貫いた。
 この女は、この工場をクビになっても、他に仕事はいくらでもある。クビになれば、むしろ自由になって、東京へでも行って、華やか世界に飛び込む事もできる。
 だが、自分にはできない。
 苛立ちと怒りと、言いようのないもどかしさのような感情が湧きあがる。
 騒ぎを聞いて駆けつけた霞流家の使用人たちに取り押さえられても、栄一郎はしばらくわけのわからない罵声や悪態を吐き続けた。引き摺られるようにして家へ連れていかれた。
 あんな騒ぎを起こしたんだ。あの女は辞めさせられるにきまってる。よりにもよって、社長の息子に水をぶちまけたんだ。そうだ、俺は社長の息子だ。跡取りだ。御曹司だぞ。
 部屋で朦朧としながら、そう言い聞かせる。だがそれは、ただ言い聞かせているだけにすぎないような気がした。
 翌日、二日酔いで頭が割れるような状態のまま、父親に呼び出された。多忙な父の社長室に呼び出され、隣の小部屋へ引きずり込まれた。応接セットのソファーに座らされる。ガミガミと降りしきるような父親の小言が二日酔いに環をかけ、栄一郎はただ黙って不貞腐れていた。適当に聞き流し、そのまま名古屋へ出た。酒を浴び、前日と同じように千鳥足で帰宅した。
 あの女、もう辞めたか?
 単なる好奇心だった。寄宿係りを呼び出し、昨夜の少女がどうなったのかと問い質した。
「あぁ、あの女ですね」
 含みを持たせてニヤニヤと笑う男の顔に、なぜだか不快を感じた。
「便所の掃除をさせられてますよ」
 いい気味だ。
 気分を良くした栄一郎は、そのまま寄宿係りの制止も聞かずに女子寮の敷地内へと入り込んだ。
 便所、ねぇ。
 時刻は午前三時をまわっていたが、寮には灯りがついていた。遅番は深夜一時まで。早番はそれとは入れ替わりだからもう働き始めているはずだ。そのまま昼過ぎの午後一時まで。一日十二時間労働。隣接する工場の機械が止まることは無い。
 深夜一時で仕事を終えた遅番のヤツらがまた起きているのだろうか? 夜更かししてる暇があったら、もっと働けっての。
 薄い壁を通して漏れてくる少女たちの声を睨みつけながら、栄一郎は手洗いを探した。女子寮の造りなど知らないが、手洗いなのだから、建物の端にあるのだろうと適当に考えた。勘は的中した。低い窓に手をかけ、半分ほど空けられた窓から覗き込んだ。丁度、扉のノブを拭いているところだった。栄一郎は口の端を曲げ、ポケットから腐った蜜柑を取り出した。そうして、背を向けている少女の後頭部めがけて思いっきり投げた。
 蜜柑は、扉に当たって砕けた。この至近距離でよく外せたものだと褒めたくなるほど見当違いな場所に落ちた。少女は当然のごとく驚いて振り返った。だが栄一郎の姿を認めるや、すぐに背を向けた。
「ざまぁみろ」
 悪態にも振り返らない。
「俺に逆らうからこんな事になるんだ。思い知ったか。エラそうな口利きやがって。何がこんな工場辞めてやる、だ。そうだ、お前は辞めてもよかったんだろう? なんだってまだ居るんだよ。こんなところで便所と遊んでねぇで、さっさと辞めろよ。ほら、辞めたらいいだろう」
 栄一郎の嘲笑にも、少女は黙々と手を動かしている。こちらを見る事は無い。
 チッ 無視かよ。
 窓から乗り込んで水でもブチまけてやろうかと思ったが、また今朝のように父親から小言を浴びせられるのも不愉快だ。蜜柑はもう無い。
「このアマァが」
 唾を吐きかけ、その日は寮を後にした。
 寄宿係りから処罰は一週間だと聞き、栄一郎は翌日も女子寮へと向かった。彼女をからかったところで彼に何かの利益があるワケではない。ただの暇つぶしだ。憂さ晴らしだ。所詮は貧乏農家から連れてこられた中卒の女だ。からかったところで何が悪い。
 またしても酔った足取りで手洗いの窓へと向かった。枠に手を掛け、覗き込んだ。途端、異臭が漂ってきた。思わず身を引いた。ドロッとした生臭さの中に、酸っぱい臭いが混じる。右手で鼻と口を覆い、(うずくま)るように身を屈めた。中から声が聞こえてくる。
「だからやめなって言ったのに」
「でも中井さんが」
「あの人が何と言おうと、こんな事していいわけがない」
「でも男の人も結構使ってる」
「今はもう禁止されてるはずだ。だいたいここは戦場じゃないんだから」
 戦場?
 場違いな言葉に目を見張る。そんな窓の外に気付いてはいないようで、やがて複数の少女たちが手洗いから出て行くのが気配でわかった。栄一郎は閉口して寮の壁伝いに歩いた。薄い木造の簡素な造りだ。工場からの音が響いてはくるが、深夜で、辺りは静かだ。少女たちは別に偲び足で歩いているワケではない。どこの部屋へ移動したのかなど、外の栄一郎にもわかる。
 少し空いた窓から覗き込んだ。三人の少女に囲まれて、一人が仰向けに寝かされていた。
 初夏の夜、今のようにエアコンが完備されているわけではない。どこの部屋も窓を開け、少しでも涼を取り込もうとしている。
「寝たみたいだ」
 そっと口を開いたのは、あの少女だった。
 アイツ、便所掃除をサボって何やってんだ?
 乗り出す視線の先で、寝ている少女の腕が布団の中へ隠された。その、蒼黒く変色した腕の一部に、栄一郎は目を見張った。
 あれは?
 思わず手に力が入り、窓枠が(きし)んだ。少女たちが一斉に振り返る。栄一郎は身動きができなかった。
「お前」
 立ち上がったのはあの少女だった。
「サナちゃん」
 少女はゆっくりと近寄ってくる。
「サナちゃん、やめとき」
 制止も聞かずに窓辺までやってくる。
「お前、また来たのか。暇だな」
 見下ろされ、栄一郎は黙って見上げる。
「こんなところで何やってる? 覗きか? 悪趣味だな。こんな女子寮なんて覗きたくなるほど女に困ってるのか? そうだよな。お前なんて相手にするような女、いるわけないもんな」
「なっ」







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